佐藤栄助翁 慶応3年(1867年)8月15日生まれ
写真は1927年(昭和2年)4月末、ヤマキ農場の樹齢42年の桜桃ナポレオン種。右が佐藤栄助翁。
さくらんぼの品種を代表する「佐藤錦」が、佐藤栄助翁の情熱と努力により初めて実を結んでから百年余になります。そしてその原木から苗木を普及させたのは岡田東作翁です。いわば佐藤栄助翁は生みの親、岡田東作翁は育ての親とも言えます。
当店は、栄助翁の四代目の子孫にあたります。さくらんぼに対する翁の情熱と夢を語り継ぎ、みなさまにお届けすることが私たちの使命です。
真紅の実をそっとかむと、ジューシーな甘みが口いっぱいに広がる……。サクランボのなかで最も人気の高い「佐藤錦」は、果樹王国と呼ばれる山形県でも特別な存在だ。この美しい果実はどのようにして生まれたのだろう。
佐藤錦の故郷・東根市は、最上川の支流である乱川(みだれがわ)の扇状地に位置する。水はけが良過ぎて水田に向かず、昔から畑地として利用されていた。明治の初め、内務省が西洋果樹の苗木を配布。サクランボも含まれていたが、収穫期が梅雨と重なるせいで実が割れてしまう。その上日持ちもしないとあって、生産量は伸びなかった。
新しい品種を作れないかーーーそう考えたのが、佐藤栄助翁。事業に失敗したため、東根町(当時)の中心部から南方に移り住み、広大な松林を開墾する毎日だった。好奇心が旺盛なことに加え、果樹栽培が趣味だった彼は、果肉が固くて酸味のある「ナポレオン」と、甘いが保存の難しい「黄玉(きだま)」に着目。交配によりできた実を発芽させて苗木を作り、そのなかで良いものを移植して育成した。大正11(1922)年、初結実をみる。さらに選別を重ね、2年後、ついに最も優れた1本、すなわち原木の育成に成功。本格的に取り組んでから、15年余りの歳月が過ぎていた。
忘れてはならないのが、苦闘する栄助翁を年若い友人の岡田東作翁が支えたこと。一方の栄助翁も、研究熱心で植物全般、とりわけ果樹に関する知識の豊富な東作翁を信頼し、二人は兄弟のようなきずなで結ばれていたという。
当初、新品種を「出羽錦」と名付けようとした栄助翁に対し、東作翁は「佐藤錦」としては、と提案。砂糖のように甘いと喜び合ったことに由来するそうだが、それだけでなく、栄助翁を兄と慕う東作翁の友情と敬意の表れでもあったのは間違いない。
東作翁の努力で普及が進み、佐藤錦はサクランボを代表する品種へと成長を遂げた。生みの親が栄助翁、育ての親が東作翁と言われる。初夏の食卓を華やかに彩る佐藤錦。先人らの情熱を映すかのようなルビー色の実を、今年も多くの人が楽しみに待つ。
(JR東日本『大人の休日倶楽部ジパング』2008年6月号より転載)
JRさくらんぼ東根駅前には、佐藤栄助翁の功績をたたえて建てられたブロンズ像があります(2003年建立)。子どもたちとさくらんぼの実を摘むその姿は、さくらんぼを愛する人たちをやさしく見つめているかのようです。
今ではさくらんぼを代表する品種となった佐藤錦。先人たちの情熱を忘れることなく、今年もそのルビー色の実をお届けいたします。
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